ゆくゆくは有へと

おかゆ/彼ノ∅有生 の雑記

「対応」

twitterでウニャウニャ話してたからそのメモとして。

「対応」は集合Aと集合Bを用意して、集合Aの元に対してBの複数の元を割り当てるという(広義の)一対多の関係のことだよね。

でも、数学はふつう単指示的で、記号は1つのものを指すようにできているので、実に素朴な一対多関係を表せない。

なので、集合を用いて、単指示の下で、集合Aの元に対してBの部分集合を割り当てるという「みかけの一対多」で表現することになる。

でもこれは実際的には、Aの1つの元に対してBの1つの部分集合(Bのべき集合の1つの元)の関係として書き下している(写像的に表現している)ので、素朴な表現方法ではない。

素朴な表現方法…というのは…、図でいえば、集合Aの1つの元から、集合Bの複数の元に複数個の矢印が伸びているというのを表すこと…と僕は思っているの。だいたい、対応についての図ってこういうので説明されるとおもうんですよね:

f:id:waraby0ginger:20160802231030p:plain

多価関数 - Wikipedia

でも、数学の表現(厳密には松坂本の数学の表現、か)だと複数の矢印が伸びている図式…ではなくて、集合Bの複数の元を囲んだマルに1つの矢印が伸びている図式になりますよね。この「マルで囲んで1つの矢印を伸ばす」(言うまでもないですが、「マルで囲んで」というのはそのような集合を作ってってことです)って手段が、数学の(集合を使った)やり口なわけですけど、個人的には「対応」についてそう解釈する時点で、概念的にもう写像を使ってるよね?って思うんですよ。だから僕は、松坂本は対応より先に写像をやったほうがいいんじゃ…?って主張?愚痴?してるんですけども。単指示的だから、どうやっても写像を仲介して記述するしかないんですよ。

直観的な一対多関係というのは複指示の下で実現できる。1つの記号(項と言ったほうがいい?)で’ものたち’を複数に指示できるから。

まあ無論、「どっちのほうが自然/直観的/素朴なのか」というのは人によるかもしれない・・・。僕としては、複指示的な言語で表す方が日常用語的な「対応」に近い気がするから・・・という話ではある。どっちで書いても記述できていることに変わりはないですし。

さっきの通り、数学は単指示的な言語だから、対応をごく直観的に定義することができない。単指示的な言語は写像の関係なら明快に表せる。なので、数学は対応の関係を写像的な表現形式でモデリングすることになる。と、僕はこう思うわけです。

とはいえ、単指示的なことが悪いわけでもない。実際、複指示な言語は割と面倒くさい。というのは、まあ、簡単にいえば、基本に据えられる関係というのが写像ではなく対応になるからです。なんだかんだ写像はシンプルでクールですからね・・・。

以上の雑談は、「単指示」「複指示」っていう僕の世界にたいして「わかる~!」ってしてくれる人にだけ伝わればいいかなくらいの気持ちで書いてるます。

P.S. 「複指示的な言語」っていうのは項(でいいかな?)はそもそもモノを複数に指示する力があるとする言語とでも言えばいいのかもしれない。たとえば、英語の("a set of dogs" ではなく) "dogs" のような。日本語の「犬」が1つの犬を指示するときもあれば、複数の犬を指示するときもあるような。(いや、もちろん、"dogs" をどう分析するかって話によりますけどね。人によっては(大体の人がそうかもしれん)、"dogs" は犬の集合を指示すると考えるだろうし。まあ…でもこのあたりの話は、集団的述語とかの自然言語形式意味論の側で起きる問題だから数学の範疇にもちこむ話ではないかも?)

とっかかりとして

ロジバンは「主語がない」とよく言われるので、いわゆる「主語―述語」関係がないと考えられる。

現れる項はすべて平等だという意味でね。

その点を考えると、ロジバンは属性叙述ではなくもっぱら事象叙述的に言明を行っていく言語だと思う。

これをベースとして考えていくことにする。

iugban

la .iuk. がロジバンを魔改造しようとして作っていく変異体の名前を iugban にすることにします。

大きく変えたいところは、{zo'e}とかそもそもの叙述に対する姿勢とかそういうところです。

その結果として、{noi}とかも影響を受けると思う。

あと、抽象節もきちんと考えたいからその辺りも。

とりあえず私がムズムズするところを掻きむしったような言語になると思う。

lo vo loi paci karda その1

gadri の論理学的観点からの解説 - La Lojban

内部量化の重複というのがある。

lo mulno kardygri cu gunma lo vo loi paci karda
トランプカード1組は13枚のカード4組で構成される

これの {lo vo loi paci karda} という表現がそれにあたる。これは次のように変形できる:

lo vo loi paci karda
= lo vo me loi paci karda
= lo vo me lo gunma be lo paci karda
= zo'e noi ke'a vomei gi'e me lo gunma be lo paci karda

「4個であり、lo gunma be lo paci karda と "among" な個たち」ということになる。
もちろん、似たようなことは lo'i (つまり selcmi) でもできる。

それで…問題にしたいのは {lo gunma be lo paci karda} 「13枚のカードからなる群」という表現についてです。

{loi}、つまり、{lo gunma be ...} について、こういう記述がある:

このように、 {loi/lei/lai} は {lo gunma be lo/le/la} という別の複数定項によって定義されているので、 {lo broda} や {lo PA sumti} を直接扱うことにはならず、 {lo gunma} という複数定項として扱われる。

lo gunma be ko'a 「ko'aからなる群」というのは(おそらく)個なはずです。集合論の言葉を借りれば、外延性の公理に従うはずなので。

そうすると、me lo gunma be ko'a なものというのは1つしかないということになるので、
{lo vo lo gunma be ko'a} というのは、1つのものを4つかき集める所業をなさないといけなくなります。変ですよね。

でも、{lo vo loi paci karda} ってのは確かに「13枚のカード4組」って読みたくなるし、この不整合をどこで吸収すればいいものか。

理想としては、「4つかき集める」ときに{loi paci karda}でいちいち別の「カード13枚」にアクセスできればいいってことになります。

となると、{lo vo loi paci karda} = {lo vo me loi paci karda} というところに調整を入れるとよさそう…?

DE'A MU'ONAI


{lo PA sumti} について、たとえば {lo PA1 lo PA2 broda} なら PA1 ≦ PA2 である必要があるはずですな。
「PA2個のbrodaなもののうちPA1個」。上の話は PA1 > PA2 だから変よな~っていう話でした。

PA1 > PA2 でも妥当な読みができるためには、{lo PA sumti} ≠ {lo PA me sumti} な変形規則を見つける必要があるんですよね。
かつ、PA1 ≦ PA2 の場合は今まで通りの意味ができるような感じで。・・・そんなんできるんやろか・・・?

xorxes liste - jimpe -

docs.google.com

典型的な項位置が

  • x2 : du'u項*1
  • x3 : 話題項

なgismu。命題的態度といわれるものもここに含まれる(はず)。

  • jimpe : 理解する
  • morji : 覚えている
  • smadi : 推測する
  • facki : 発見する
  • krici : 信じている
  • sruma : 想定する
  • jijnu : 直感する
  • jdice : 決定する
  • djuno : 知っている*1
  • jinvi : 思っている*1
  • cilre : 学ぶ*2
  • xusra : 主張する*3
  • birti : 確信している*3
  • senpi : 懐疑している*3
  • pacna : 期待する*4
  • pajni : 判断する*3
  • tugni : 同意する*5
  • ctuca : 教える*2
  • darlu : 擁護する*6
  • sitna : 引用する*7

*1
x4「認識体系」「根拠」が入る。

*2
{cilre}はx4「情報源」、x5「方法」が入る。{ctuca}はx1「教え手」が割り込んで、x5「方法」が入る。
cilre_4 = ctuca_1 「教え手は学びの情報源」とする見方もあり。この見方では {vo'ai cilre} = {ctuca}

*3
x3が無し。なんでないんだろ…?まじでなんで…?(後述)
pajni はx2に抽象一般が入るので、そもそもjimpe系じゃないかもね。

*4
jimpe系ではないと思うんだけど、なぜかここにある。x2「期待すること」、x3「見込み・確率」が入る。

*5
x2「同意対象」が割り込む。

*6
x2「賛成する立場」、x3「反対する立場」。これもなんでjimpe系なんやろ?

*7
x2「引用元」、x3「引用目的・命題」。{sitna}は{xusra}の派生と取れないこともない。「x3が真であることを示すためにx2を引用する」とか、そういう風にも捉えられる。{djuno}とか{cilre}にあるような「根拠」「情報源」とも関連がありそう。


補足。情報は、対象とそれにまつわる命題群であると考えられる(工業規格的には「事実、事象、事物、過程、着想などの対象物に関して知り得たことであって、概念を含み、一定の文脈中で特定の意味をもつもの」らしい)。題目項はdu'u項にとってはzo'u部の項ということですね。そう考えると、「題目」項がない *3 のgismuらは純粋に「命題に対する」語であり、「題目」項がある他のgismuらはむしろ「情報に対する」語だと言えるかもしれない。

xusra は情報ではなく命題を主張すること(日本語的に、命題を主張することはできるけど、情報は主張できるものではなさそうだし)であり、birti は情報以前の(何かについての言明であることを問わず)ある種素朴な命題に対して確信することである。senpi も同様。

*1:命題項といわずにdu'u項で留めたのはいくつか思うところがあるからです。思うにdu'u抽象はそんなに命題じゃない。もちろん命題なときもあるけど。

ba'a 派生の試験的cmavo

{ba'a} は I expect - I experience - I remember という語で、cu'i形、nai形の意味が結構独特。

実際、じゃあ「私は期待していない」はどうやって表すね~んみたいな話になるし、それにお応えするいくつかのcmavoがある。

  • kai'e :: I expect - I deny expecting
  • lai'i :: I experience - I deny experiencing
  • vei'i :: I remember (experiencing) - I deny remembering
  • moi'i :: I remember - I don't remember

それぞれnai形は原形の否定になっていて、ba'a より圧縮率は悪いけど、使い勝手はいいかもしれない。

ひとつだけ補足しておくと、vei'i は「経験的な記憶」で、moi'i は「知識的な記憶」だそう。 「経験的な記憶に基づく」のと「経験に基づく」の、何が違うねん…? {lai'i} と {vei'i} は実質同義だと思うんだけどな。