ゆくゆくは有へと

おかゆ/彼ノ∅有生 の雑記

「対応」

twitterでウニャウニャ話してたからそのメモとして。

「対応」は集合Aと集合Bを用意して、集合Aの元に対してBの複数の元を割り当てるという(広義の)一対多の関係のことだよね。

でも、数学はふつう単指示的で、記号は1つのものを指すようにできているので、実に素朴な一対多関係を表せない。

なので、集合を用いて、単指示の下で、集合Aの元に対してBの部分集合を割り当てるという「みかけの一対多」で表現することになる。

でもこれは実際的には、Aの1つの元に対してBの1つの部分集合(Bのべき集合の1つの元)の関係として書き下している(写像的に表現している)ので、素朴な表現方法ではない。

素朴な表現方法…というのは…、図でいえば、集合Aの1つの元から、集合Bの複数の元に複数個の矢印が伸びているというのを表すこと…と僕は思っているの。だいたい、対応についての図ってこういうので説明されるとおもうんですよね:

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多価関数 - Wikipedia

でも、数学の表現(厳密には松坂本の数学の表現、か)だと複数の矢印が伸びている図式…ではなくて、集合Bの複数の元を囲んだマルに1つの矢印が伸びている図式になりますよね。この「マルで囲んで1つの矢印を伸ばす」(言うまでもないですが、「マルで囲んで」というのはそのような集合を作ってってことです)って手段が、数学の(集合を使った)やり口なわけですけど、個人的には「対応」についてそう解釈する時点で、概念的にもう写像を使ってるよね?って思うんですよ。だから僕は、松坂本は対応より先に写像をやったほうがいいんじゃ…?って主張?愚痴?してるんですけども。単指示的だから、どうやっても写像を仲介して記述するしかないんですよ。

直観的な一対多関係というのは複指示の下で実現できる。1つの記号(項と言ったほうがいい?)で’ものたち’を複数に指示できるから。

まあ無論、「どっちのほうが自然/直観的/素朴なのか」というのは人によるかもしれない・・・。僕としては、複指示的な言語で表す方が日常用語的な「対応」に近い気がするから・・・という話ではある。どっちで書いても記述できていることに変わりはないですし。

さっきの通り、数学は単指示的な言語だから、対応をごく直観的に定義することができない。単指示的な言語は写像の関係なら明快に表せる。なので、数学は対応の関係を写像的な表現形式でモデリングすることになる。と、僕はこう思うわけです。

とはいえ、単指示的なことが悪いわけでもない。実際、複指示な言語は割と面倒くさい。というのは、まあ、簡単にいえば、基本に据えられる関係というのが写像ではなく対応になるからです。なんだかんだ写像はシンプルでクールですからね・・・。

以上の雑談は、「単指示」「複指示」っていう僕の世界にたいして「わかる~!」ってしてくれる人にだけ伝わればいいかなくらいの気持ちで書いてるます。

P.S. 「複指示的な言語」っていうのは項(でいいかな?)はそもそもモノを複数に指示する力があるとする言語とでも言えばいいのかもしれない。たとえば、英語の("a set of dogs" ではなく) "dogs" のような。日本語の「犬」が1つの犬を指示するときもあれば、複数の犬を指示するときもあるような。(いや、もちろん、"dogs" をどう分析するかって話によりますけどね。人によっては(大体の人がそうかもしれん)、"dogs" は犬の集合を指示すると考えるだろうし。まあ…でもこのあたりの話は、集団的述語とかの自然言語形式意味論の側で起きる問題だから数学の範疇にもちこむ話ではないかも?)