ゆくゆくは有へと

おかゆ/彼ノ∅有生 の雑記

zi'oの困惑

zi'oはいわゆる「代名詞」であり、単体で項として使うことのできる cmavo のひとつです。統語論的には mi や ti や ra などと同類です。

ここでは、少しまとまった私の思考を書くことにします。

zi'o は述語演算子である

zi'o は seltau(tanru の修飾部)や間制(時制や場制)がそうであるように、述語を別の述語に変換する語です。もっと言えば、zi'o は tag の対極にある存在です。すなわち、tag が元の述語に新しい引数を付加した新しい述語を作るのに対して、zi'o は元の述語から1つ(zi'oが位置するところの)引数を消去した新しい述語を作ります。

zi'o は他の代項と統語論的には等価でありますが、その機能面からいえば、全く異なる振る舞いをするといえます。論理学的な意味での「項」では全くないのです。

思いつきですが、zi'o は「反ラムダ的」とでもいえばいいかもしれません。通常、ラムダ式によって規定された位置は引数として開かれており、つまり何らかの項を入れることができるわけですが、zi'oによって規定された位置は引数として消失しているわけですから。

zi'oの矛盾

それで、ここまでは特に今までも誰かが論じてきたことでした。この一連のzi'oの解説には一見、重大な矛盾があるように思えていました。

たとえば、{zbasu} というのは「x1 が x2 を x3 から作る」という意味構造をもちます。ここから作る {zi'o zbasu} というのは「(∅は)x2 を x3 から作る」という意味構造をもつことになります。ここで、「∅」は消失した引数を意味しています。ちなみに {zi'o zbasu} というのを述語とみなしにくいのであれば、これが {se zbasu be zi'o} と等価であることに注意してみてください。

問題は、{zbasu}がそのような意味構造を持っていたのは、{zbasu}の表す一連の事態にはそのような意味構造が不可欠だからだということです。にもかかわらず、zi'o はその「必須の構造」を崩壊させてしまうのです。{zbasu}の意味構造は人間認知的に使いやすいようなものを(おそらくは)目指してデザインされたものであるのに、zi'o はそれをあえて破壊し、一見無意味な述語を徒に生成するように思えます。これが zi'o が孕む矛盾です。

フレームの錯誤

上の矛盾は、ロジバン表現と論理学的分析、すなわちロジバン表現の述語論理形式への翻訳についての拙い認識から生じるといえます。端的にいって、(他の言語では当然そう思われていますが)ロジバンの表現は論理形式そのものではないのです。

ロジバンの述語の定義は、おそらくFillmoreのフレーム意味論の応用だと思われます。よく引き合いに出されるのは「売買」のフレームで、これはロジバンでは {vecnu}の意味構造とほぼ(完全に)一致します:

f:id:waraby0ginger:20160510165202p:plain *1

売買のフレームには、参与者(フレーム要素)が4つあります:商品、買い手、売り手、値段(お金)です。{vecnu}はその意味構造から明らかな通り、この4つの参与者すべてに意識を向けた述語になっています。一方で、(ほとんどの語がそうでありますが)英語の "buy" や "spend" といった述語は喚起するフレームの一部分に焦点を当てる(を際立たせる)ものになっています。たとえば "buy" なら「買い手」と「商品」に、"spend" なら「買い手」と「お金」に。

「買う(buy)」という単語を理解するには実に様々なことを知っていなければならない。買う人(buyer)はお金(money)を売り手(seller)に渡すということと引き換えに、商品(goods)を受けてとることが「買う」ことの一般的な「シナリオ」だが、この時点で実に多くの要素(element: frame element)が含まれていることに気がつく。このやり取りを「売買フレーム」と定義しよう。すると、「買う」という動詞はこのイベントの中で、「買い手の行動」にフォーカスを当てたものだと言える。(cf. Fillmore 1977)さらに、売り手にフォーカスを当てた動詞として「売る(sell)」が、お金(money)を前景化し、商品(goods)を背景化する動詞どして「払う(pay)」、「費やす(spend)」、「かかる(cost)」が挙げられる。ここでのポイントは、ここにて出てきた単語のどれひとつをとっても、背景知識(Frame)なしでは理解できないことである。

*2

上で述べた矛盾を孕んだ分析は、ロジバンの述語がそれぞれ固有のフレームを立ち上げるように考えていました(ロジバンでこの考えに陥りやすいのは、述語の定義があたかもフレームの定義のように見えるからでしょう)。しかしながら、実際はそうでなく、zi'o の役目はフレーム要素の背景化にあると考えるべきなのです。

つまり、{vecnu fi zi'o zi'o}「x1 は x2 を(∅に∅の値段で)売る」というのは「買い手・値段なき売買」ではなく「買い手・値段について触れない(前景化させない/背景化させた)売買フレームの見方を反映したもの」ということになります。

そして、この観点からは、ロジバン表現において具体的な項が与えられていない引数の位置というのはその表現において前景化していないわけですから、暗黙的にzi'oが想定されているという風に解釈することができます。

ロジバン表現と論理学的分析の分離

しかし、通常、具体的な項が与えられていない引数位置には zo'e が想定されると説明されています。これは先程の解釈と相容れないように思えます。

この2つの解釈の違いは、ロジバン表現と論理学的分析の混同にあると思われます。結論からいえば、ロジバン表現的には zi'o が、論理学的分析では zo'e が想定されると解釈されるはずです。

さっきの通り、zi'o というのはその述語が喚起するフレームから所定位置のフレーム要素を背景化させる機能があります。しかし、これは「語り方」の差異であり、客観的には同じ事態を表しているはずです。つまり、{vecnu fi zi'o zi'o}「x1 は x2 を(∅に∅の値段で)売る」で表される事態にも、「買い手」と「値段」のフレーム要素は存在しており、単に表現/語り方の上で前景化していないというだけなのです。

もう一つ例を出すと、"coast" と "shore" は物理的にはともに「岸」(海と陸の境界)を意味しますが、これらの語は「海側からみるか、陸側からみるか」という視点について異なっています。客観的な表現(あるいは論理学的分析)の観点からいえば、"coast"と"shore"に差異を見出さなくて(おそらく)大丈夫なものの、英語という言語の立場からは荒っぽい翻訳/分析だということになります。

ロジバン表現の分析でよく(現状ほぼ唯一に)なされている論理学的な分析は、こういったロジバンの語り方に関する機微については捨象していると考えたほうがいいでしょう。

暗黙のzi'o/zo'eの話に戻りますと、ロジバン表現を論理学的分析にかけるとき、ロジバンにおける語り方の様子が捨象されます。すなわち、{vecnu fi zi'o zi'o} という述語を用いたロジバン表現が喚起するフレームは、{vecnu}が喚起するフレームと同一なわけですから、論理学的な意味分析においては{vecnu fi zi'o zi'o}という表現は、もっぱら扱いやすい {vecnu} へと jbo→jbo翻訳されるわけです*3。この過程において、{vecnu fi zi'o zi'o} は {vecnu}に翻訳され、{vecnu fi zi'o zi'o}の意味する語り方、つまり2つのフレーム要素の背景化がキャンセルされます。{vecnu fi zi'o zi'o}の語り方を単なる{vecnu}の語り方からみると、x3とx4には zo'e が想定されなければなりません。「暗黙なzo'e」という考えは、ロジバン表現の論理学的分析の観点から生じるものなのです。

一方で、論理学的分析を介さずにロジバン表現をロジバン内で分析しようとすると、{vecnu fi ∅ ∅}(つまり x3, x4 には具体的な項が与えられていない表現)は{vecnu}の喚起するフレームの x3, x4に相当する要素が前景化されていない表現なわけですから、あえてこれを別の述語を用いて表現すれば、{vecnu fi zi'o zi'o}となるのです。つまりこの観点からは「暗黙なzi'o」という考えが生じます。

結論的には、暗黙にzo'eが想定されるかzi'oが想定されるかというのは、ロジバン表現をどのように分析するかで変わるということです。現在、ロジバン表現はもっぱら論理学的分析しかなされていないので、zo'eが想定されるということになりますが、本来ロジバンはロジバン内で閉じているべき、つまり論理学的分析無しにロジバン内で分析がなされるべきです。ロジバンは確かに述語論理を文法基盤として開発されましたが、そろそろ論理学的視点から分離した視点をもっていいのではないかと思います。

まとめ

ロジバンの論理学的分析との分離というのは今後ますます必要になってくるように思います。なぜなら、論理学的分析は確かに強力ではあるものの、今なお完全なものではないからです。論理学的分析を拠り所にしてロジバンの意味論的な話を詰めようとしたとき、ロジバンの限界ではなく論理学的分析の技術力の限界によってロジバン開発が頓挫しかねません。ロジバンの形式論理への翻訳理論(技術)というものは、ロジバン開発と(ロジバンが論理的言語であるがゆえに分離しにくいものであるのは承知の上で)独立して存在すべきです。

zi'o はロジバン表現の「語り方」についての差異を示すものであり、その機能はフレーム要素の背景化にあるという主張を今回行いました。この一連の議論は、ロジバンを論理学的分析によってのみ行っているうちは絶対に見いだせない点であり、論理学的分析からの分離というものを強く示唆づけているでしょう。

*1:http://jfn.st.hc.keio.ac.jp/publications/OhoriJCLA5.pdf より引用

*2:http://realize.jounin.jp/framesemantics.html より引用。強調は私によるもの

*3:これはロジバン特有の問題ではなく、人間言語から形式論理への翻訳では一般に起こりえることです。ロジバンにおいては、ロジバンが論理的言語という特徴を有するがゆえに、殊更この翻訳に対する注意が薄れているのだと思います。