ちょっと前に、暗黙のzi'oについて話したんですけど、反例的なものを見つけてごにょにょにょ。
klama, pluta, muvdu, litru, cliva
これは pluta, klama, muvdu, litru, cliva のPSを図式したものです。登場人物としては
- 出発点
- 到着点/目標点
- 経路
- 経由点
- 移動手段
- 移動物体
の6種類です(逆にそれだけ!)。上からA, B, C, D, E, Fと振っていくと、
- klama : FBADE
- pluta : CABD
- muvdu : FBAD
- litru : FDE
- cliva : FAD
となっています。pluta 以外はすべて x1 が F ということで、すごく似た意味だろうということは分かります。
特に、klama の FBADE という並びは、muvdu, litru, cliva でもそれぞれ BAD, DE, AD の形で保存されています。ふむー。
あえて書くなら、klama の FBADE を基準として、
- muvdu : FBAD(E)
- litru : F(BA)DE
- cliva : F(B)AD(E)
ということになりますな。というわけで、おそらくこの4つの語は同じフレームを喚起しているように思います。
klama を使うこと、clivaを使うこと
で、本題です。
mi klama fi ti
というのと
mi cliva ti
というのとで、語りの意味合いは変わるのでしょうか?ということです。もし暗黙にzi'oが想定されるならこの2つは語り的にも同一です。
…けれども、やっぱり klama には「行き先」について話者は表沙汰にはしていないけれども少しは意識しているような印象を受けますね。 一方で、cliva を使っているのをみると、あ、本当に行き先については興味(意識して)ないんだなって思いますね。
…このことは、暗黙のzi'o説に対する反例として十分ではないかなと思いました。ぐぬぬ。もちろん、明示的に
mi klama zi'o ti
と言った場合は、これは確かに
mi cliva ti
と同じだろうと踏んでよさそうですよね。(いや、厳密にはこれでも同じではないですね!klama5の存在がありますから。本当に cliva と同じにしたいなら、 klama be zi'o bei fu zi'o になります。)
ってことは、ロジバン内在的に考えても、「非言及箇所はzo'eがいる」ということになりそうです。良かったような残念なような。
とはいえ、以前言ったことは部分的には正しいです。えっと、その部分というのは、
- 上で述べた矛盾を孕んだ分析は、ロジバンの述語がそれぞれ固有のフレームを立ち上げるように考えていました(ロジバンでこの考えに陥りやすいのは、述語の定義があたかもフレームの定義のように見えるからでしょう)。しかしながら、実際はそうでなく、zi'o の役目はフレーム要素の背景化にあると考えるべきなのです。
- つまり、{vecnu fi zi'o zi'o}「x1 は x2 を(∅に∅の値段で)売る」というのは「買い手・値段なき売買」ではなく「買い手・値段について触れない(前景化させない/背景化させた)売買フレームの見方を反映したもの」ということになります。
この辺りです。「zi'o の役目はフレーム要素の背景化にある」ここですね。これは確かにその通りですね。
zi'o がある1つの共通なフレームの、特定の1つの要素を背景化させる。そうすると、(いまの4つがそうであるように)語りの印象の異なる述語ができるわけです。
余談・文句
実は、時系列的には本題が余談でした。一番はこの文句でした。英語定義では klama4, cliva3, litru2, muvdu4 というのは "route" と定義されています。のにのに、なぜかpluta1ではなくpluta4が入るような位置なんですよ!なんでやねん!!
つまり、原理主義的には「あそこを通って行く」というのは
- klama fo tu
ではなく
- klama fo lo pluta be fo tu
であるべきなんですよね。これは一種の型強制かなと思っています。まあロジバン(ロジバニスト)は抽象への強制、いわゆる sumti-rising については敏感なんですけれど、こういう同レベル間の型強制についてはほぼ言及がないですね。
少し注意深い人ならせめて
- klama fo zo'e pe tu
くらいにするでしょうに。なんというか、なんというか!
…と言いましたが、実のところ一つ解釈の余地がありまして、実は "route x4" じゃなくて "route defined by points including x4" を意図してたんですよ~!っていう方法です。なら最初からそう書かんかいというツッコミが生じますが、まあ型強制よりはマシでしょう。
しかしながら、この手の型強制、認知言語学的にはメトニミーになるんでしょうね。「認知的な際立ちが高いもの(参照点)から低いもの(ターゲット)へとアクセスするという認知作用」*1です。実際、経路より経由点(チェックポイント)のほうが具体的だし、認知的な際立ちが高そうですからね。人間的には仕方のない型強制なのかもしれない。でもこれを仕方がないものとして受け止めるなら、sumti-rising だって立派な「仕方のないこと」ですよ。あれも、抽象的な存在を指示するのに、より具体的な指示のしやすい(際立ちの高い)ものを利用しているわけですから。ね?
「はー、じゃあメトニミーマーカーつくるかー、tu'au とか pe'au かなー」って思ってたんですが、「あれ? la'e がそうでは?」となりました。la'e は the referent of (indirect pointer) で、まさにメトニミーじゃないですかねこれ。で、そう考えると la'e って tu'a の汎用版なんですね。
- mi djica la'e do : あなた(で私が指示しているもの)が欲しい。
- klama fo la'e tu : あそこ(で私が指示している経路)を通って行く。
みたいな感じで、かなりいい線行ってますね。la'e たそ、今までずーーーーーっと文字列の相手しかさせられてこなくて可哀想だったけど、ちゃんと日の目を見れそうでよかったね!
そうなると、la'e の対になる lu'e も何かに使えないものか・・・。まあ例えばなんですけど、写真みながら「これがジョンだよ」っていうとき、
- la'e ti cu me la .djan.
って言うこともできれば、
- ti cu me lu'e la .djan.
っていうこともできますね。「それ自身はAではないけど、Aとみなして指示できるようなもの」ですね。まあでも、認知言語学でメトニミーが取り上げられて、その逆についてはあんま聞かないことをみると、lu'e よりも la'e のほうが人間には使い勝手がいいんでしょうな。
こういうのも面白いですね。
- mi tcidu la'e le cukta : 私はあの本を読む
- mi tcidu fi le cukta : 私はあの本を読む
本それ自体は文字列, 読まれるもの x2 ではないですから、x2 に le cukta を入れるとき、それは la'e ってますよね。 la'e を使わずにいうなら、x3 に入れる必要があります。