ゆくゆくは有へと

おかゆ/オカ∃/大鹿有生/彼ノ∅有生 の雑記

ぐぬぬ、非累積め

かんれん

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いんとろ

どやどやな感じで2つの記事をかき、McKayの「plural predication」を読み返していると、ああやっちまったってところに遭遇。

"X meets together in the library"「xはその図書館で会合する」

生徒たちがその図書館の色々なところで会合を開いているとする。つまり述語Fとして

I(F) = <aとbとc> と <dとeとf> と <gとhとiとj>

のような感じ。これは3ヶ所で会合が開かれたってことですね。このとき、準分配要請が必要かどうか?って話で、つまり、

F(aとbとcとdとeとf)

を真とするかどうか?これを真としないような述語のことを McKayは「non-cumulative」(非累積的)と呼んでいます。

前回のぼくの言葉でいえば、基本意味だけを真偽の評価に用いるような述語のことを非累積的な述語と呼ぶようです。

McKayの「累積的」というのは僕が前回定義した「累積的」よりも広い意味だと思います。彼にとっての「述語が累積的である」とは僕にとっていえば準分配要請が必要であるということです。ハイブリッドに考えれば、僕のあの要請は「累積要請」と名付けるほうがよいのかもしれません。

あるいは、McKayは基本意味だけで複数論理の意味論を与えようとしている、と考えることもできます。この考えでいくと、僕の「累積的」と彼の「累積的」は一致します。

(1) I(F) = <a> と <b> と <aとb> と <cとd> と <aとbとcとd>

は僕にとっても彼にとっても累積的です。一方、<aとb>を取り除いた

(2) I(F') = <a> と <b> と <cとd> と <aとbとcとd>

は、二人にとって累積的ではありません。ただし、準分配要請という考えをもつ僕は、実際に真偽に晒される外延は

(3) δ(I(F')) = <a> と <b> と <cとd> と <aとbとcとd> と <aとb>

だと考えているので、真偽に晒される実質的な外延についていえば、McKayにとってこの述語は累積的だということになります。

実際、基本意味と拡張意味っていうのはかなり技巧的というか、ぎこちないアプローチですからね。

どうやって擦りあわせていこうかしら。

とりあえずMcKayは「累積的」っていうときに、それが推論的に累積的な性質を呈しているのか、本質的に累積的な性質を呈しているのかについては区別していないように思います。ここで「推論的に累積的である」というのは僕のいう「拡張意味」のことで、「本質的に累積的である」というのは僕のいう「累積的」のことです。つまり、推論的に累積的であるとは、拡張意味まで意味を広げると累積的であるということであり、本質的に累積的であるとは、基本意味で既に累積的だということです。僕個人としてはこの区別はしておくべきだと思うんですが…。

たとえば、「xは学生である」という述語が本質的に累積的であることはないです。この述語は完全に分配的ですから。つまり、任意の複数指示的な項記号は推論的に真に解釈されます。McKayにとっては、この述語も累積的です。一方で、「xは3kg以上だ」という述語は本質的に累積的です。「aが3kg以上だ」「bが3kg以上だ」ゆえに「aとbが3kg以上だ」という推論以前に、「aとbが3kg以上だ」ということはその述語の意味によって決定されるべきだからです。えっと、つまり、「xは3kg以上だ」という述語には集団的な満たし方があるわけで、集団的な満たし方と、分配的な満たし方というのをきちんと区別すべきだと思うわけです(背景にその辺りの問題に触れるのであればね!)。

「aとbが3kg以上だ」が真になることと、「aが3kg以上」「bが3kg以上」が真になることは同値ではありません。一方で、「aとbが学生だ」が真になることと、「aが学生だ」「bが学生だ」が真になることは同値です。完全に分配的な述語の累積性は、非分配的な述語の累積性とは別で考えたほうがよくないですか?

実際、問題となる「非累積性」というのは完全に分配的な述語には起こりえず、非分配的な述語にのみ起こります。明らかに非対称的なんですよね。

推論的累積性

推論的累積性をもたない述語というのは確かにあることは認めます。たとえば、「xは(ちょうど)2個だ」。のような「ちょうどホニャホニャ」ってやつは推論的累積性がない。

でもたとえば、「300円のりんごとバナナ」というの。「xは(ちょうど)300円だ」という述語が関連していますから、推論的累積性がないというのであれば、このフレーズがいうのは「りんごとバナナ合わせて300円だ」ということです。ですけれども、意外とそうでもない。300円のリンゴと、300円のバナナ(つまり「合わせて600円のリンゴとバナナ」)のことを意味していることも結構あります。とはいいつつも、「リンゴとバナナは300円だ」って言われたら、合計金額でしかない(推論的累積性を考えない)かなとも思う。ううん。

じゃあ、批判的に、そもそも推論的累積性なんてものはあるのか?これが無かったら分配性が定義できない!んですけど、それなら分配性が定義できる最小の累積性だけは認めるが、他はないんじゃないの?つまり、δというのは

(4) [∀x : x ⊂ I(F)] <β(x)> ⊂ δ(I(F))

を満たす最小の対象をもつものですが、これは「言い過ぎ」で、

(5) [∀x : x ⊂ I(F) ∧ [∀w : w ⊂ x ∧ π(w)] π(β(w))]] <β(x)> ⊂ δ(I(F))

くらいなんじゃないか?えっと、「[∀w : w ⊂ x ∧ π(w)] π(β(w))」は長いので、μ(x) としてやってもいいです。意味は「xが指示する意味のそれぞれは、単指示的なものだ」です。

(5') I(F) ⊂ δ(I(F)) ∧ [∀x : x ⊂ I(F) ∧ μ(x)] <β(x)> ⊂ δ(I(F))

こうすると、分配性のための拡張は確保できます。たとえば、

(6) I(F) = <a> と <b> と <c> と <cとd>
(7) δ(I(F)) = <a> と <b> と <c> と <cとd> と <aとb> と <bとc> と <cとa> と <aとbとc>

これによって、「分配推論成立のための意味拡張」は担保されます。実際に真偽に晒される外延は I(F)とδ(I(F)) ということになります。

推論的累積性のない述語では、δは(5)のような定義になるということです。このような「分配推論成立のための意味拡張」を担う関数のことをηと名づけます。

とすると、複数指示系の外延的意味論において、述語の意味を定めるとは、

  1. 基本意味の外延の設定
  2. 意味拡張関数の決定(δかηか)

ということになります。基本意味の設定は(分配性にも大きく影響しますが、概ね)集団的な満たし方の存在の設定です。意味拡張関数は分配性を担保し、さらには推論的累積性の有無を決定します。

  • I(F) = <a>と<b>と<aとc>
  • δ(I(F)) = <a>と<b>と<aとc>と<aとb>と<aとbとc>
  • η(I(F)) = <a>と<b>と<aとc>と<aとb>

  • I(G) = <aとb>と<cとd>

  • δ(I(G)) = <aとb>と<cとd>と<aとbとcとd>
  • η(I(G)) = <aとb>と<cとd>

McKay的には、Fのような、個が満たせるような述語については非累積性については考えてないのでηの存在はMcKay的にもOKかなと思います。ηは個で満たすような意味がない場合はI(F)をそのまま返します。つまり集団的に満たすようなときの意味には推論的累積性は成り立たないということです。

とはいえ「xは1個だ」はこれでもダメです。これはそれぞれの個は満たせますが、累積性はないんですよね。ということは、分配性の担保さえ拒否する述語もいるのか。

というわけで、恐らく完全にはこうなります:

  • δ : I(F)のすべての意味について推論的累積性を課す
  • η : I(F)のμな意味についてのみ推論的累積性を課す
  • ξ : 推論的累積性を課さない

ここまでして基本意味と拡張意味の分離にこだわるのかというと、それはやはり <aとbとc> が分配的・集団的のどちらで述語を満たしたのかということを区別したいからです。

外延的意味論にその両者の区別はいらん!ということなら、拡張意味をそのまま外延的意味として表示すればいいですよ!ぷんぷん!推論的累積性成立のための意味拡張というのを使えば、分配性と集団性が外延的意味を使ってても区別できるよってことが言いたいだけです。