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ゆくゆくは有へと

おかゆ/オカ∃/大鹿有生/彼ノ∅有生 の雑記

zi'oの困惑 その2

「zi'oの困惑」の続き、というか、補足です。

iuk.hateblo.jp

前記事では、次のことを述べました:ロジバンの述語も、他言語のそれと同様、そのそれぞれが固有のフレームを立ち上げるわけではなく、喚起するフレームのフレーム要素の際立たせ方において異なる。他にも、「ロジバンの内在的分析による論理学的分析からの脱却」やそれに関連する事例としての「暗黙のzi'o/zo'e」についても書きましたが、今回の記事についてはその辺りは特にふれません。

さて、ロジバンの述語は、place structure*1によって記述されており、それが皮肉にも一見、ロジバンの述語がそれぞれで固有のフレームを立ち上げるように見えてしまいます(少なくとも僕はそう)。

{vecnu}に見られる通り、ロジバンの基本語が作られる当時において記述されていたフレーム群に関しては、おそらくフレームそのものを喚起するような述語というのが定義されているように思われます。しかしながら、当時そこまで入念に分析の進んでいなかったものに関しては当てはまらない、と考えるのがよさそうです。いずれにせよ、ここで言いたいのは、「ロジバンの基本語はロジバンの概念理解の基礎となるフレームに対応する」と考えてはいけないということです。あまり性急な態度はとらず、自然言語と同じような感じで接してやるのがいいように思います。

この補足記事で書きたいことは、jbovlasteにある simple-english や jbo 定義が英語定義とは異なるplace structureを有しているということです。具体的にいうと、多くの形容詞的な述語から「基準(standard)」の位置が取り払われています。{glare}, {lenku}, {clira}, {lerci} などなど。

このことは僕がさきに述べたことを支持しているように思います。まず、そもそもどうして「基準」の項があったかといえば、確かにその述語が喚起するフレームには「基準」の要素が存在するからです。ほとんどの形容詞的述語は、その基準なしには真偽の判定ができないからです。これを踏まえると、「ロジバンの述語がそれぞれで固有のフレームを立ち上げる」という考えが上手くいかなくなることは明白です。少なくとも、jbo定義やsimple-english定義は最近整備されてきたものですから、その考えは現在のロジバンでは上手くいかないと考えるべきです。

結局、この2つの定義で「基準」の位置を取っ払っても健全であるためには、述語のplace structureというのは、それが喚起するフレーム要素のどれをデフォルトで際立たせられるかを示したものでしかないと考える他ありませんし、逆にそう考えることで、ロジバンはより柔軟でいられます。

つまり、jbo, simple-english定義では、デフォルトでは「基準」要素を際立たせられない、ということを言っているわけです。

「基準」要素の取り払いには賛否あるかもしれませんが、僕ひとりだけでも賛否両論です。賛としては、ある種の「意味型」というものが形成され、より合理的でスッキリした体系になります。「基準」には {ma'i} を使ってもらえばいいわけですし、たとえば{glare}から「基準」位置を取り払うことで、{fi'o se glare}というあまり重要でないような、(ムダな文脈のついた)要素に惑わされなくてすみます。否としては、賛とのトレードオフですが、共通化してしまうということは、place structureの旨みが半減してしまうということでもあります。たとえば、今は形容詞的述語に「基準」要素があるおかげで、使用者は形容詞的述語の喚起するフレームには「基準」要素がいなければならないということを認識せざるを得ません。しかし、共通化によって place structureから取り払ってしまうと、喚起するフレームのフレーム要素に対するヒントというのがそれだけ減ってしまうことになります。これはロジバンの利点のひとつを損ねてしまうように思います。

この考えをもう少しきちんと進めていけば、最終的に tag の表すところについて正しい理解が得られるのではないかと期待しています。

*1:wikipediaでは「項則」という訳が提案されていましたね。個人的には割とありですが、僕はよく「意味構造」という言葉を使ってしまいます。