ゆくゆくは有へと

おかゆ/オカ∃/大鹿有生/彼ノ∅有生 の雑記

si'o抽象についての考え

si'oに悩まされた人生でした・・・・・・。

si'o はいわゆる抽象詞 NU で、subsentence を後ろにとり、selbri として使える言語単位になります。

「x1 は[subsentence] に表される、x2(思考者)の概念」くらいの意味。

BPFK sections の ce'u の項によれば、si'o節(si'oに取り込まれる subsentence のこと)の空欄はすべて ce'u で埋められるそう。

この辺りのことは散々語り尽くしたところがあるので軽く流すね。

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du'u抽象とka抽象は親戚なところがあります。その違いは取り込む文が開文か閉文か(ce'uが無いかあるか)。

この2つはそれぞれ「命題」と「属性・性質/関係」を表す抽象で、論理学?的にはこれらはどちらも内包です。
命題は閉文の内包で、性質/関係は開文の内包。もう少しいえば、命題は0次の内包、性質は1次の内包、関係は2次の内包。
いずれにせよ、これらは文形式の内包なのだ。(一方で、文の外延は真理条件になるのかな。あるいは、閉文の外延は真理値かな。で、1次の開文の外延はクラスになるんだろう。*1)その点で、du'uとkaは共通点を有する。

si'o抽象にはそのような、取り込む文の開閉による形態論的区別がなされていない。ふむ・・・?

おそらく、上で述べたようにsi'o節では空いた場所はce'u(自由変項)だということを考えれば、si'o節はふつう開文なのだろうと推察できる。

でも、ときどき閉文がsi'o節になっているのも見られる。これについては後で考えよう。

ひとまず、やっぱり、si'o抽象というのは、その述語の意味に近いなにかなのだと思う。思い切って、si'o抽象とは place structureのことと言おう。たとえば、{lo si'o vecnu} というのは「〈売買〉の概念」を意味する。ややこしいけど、こういうこともできる:{lo si'o vecnu} は {vecnu} の意味を意味している。「概念=意味???」という人もいるだろうけど、まあとりあえず我慢してよ。イコールとまで言うと、確かに違和感があるかもしれないけれど、少なくともその語の意味となにかしら関わってるとは思う。

ちなみに、{lo si'o vecnu}は、{lo si'o ce'u vecnu ce'u ce'u ce'u}と同じ。さて、{lo ka ce'u vecnu ce'u ce'u ce'u} と {lo si'o vecnu} のちがいはなんだろう?思うに、「関係」(もとい「属性」も)は述語の表す「概念」の内包だ(さっきの「内包」と用法がちがうことに注意していてほしい。さっきは「文」という存在に対して外延と内包を定義したわけで、いまは打って変わって「概念」という存在に対して内包(と外延)を定義したわけだ。無知で申し訳ないのだけど、前者の定義はクワイン流で、後者の定義が結構由緒正しい感じな気がする。もっとも前者では「内包/外延」でなく「意義/意味」といいわけるべきなのかもしれない)。これに従えば、si'o抽象はka抽象よりも抽象的な存在だ。

{prami} は〈愛;x1はx2を愛する〉の概念の上にたつ。だからこそ、{prami}を述語として使ったとき、これは内包の「関係」を通じて、2つの存在を取り結ぶことができる。

{lo prami} がよく「(何かを)愛する人」ではなく、「愛」と解釈されてしまう理由は、実はこの辺りと関連しているように思う。{prami}が〈愛〉という概念を表し、これがそのままで述語として使われるなら、これを名詞化すれば、それは〈愛〉なる概念を意味するだろうと考えるのは確かに尤もだ。この考えでは、確かに意味的なシフトが起きないのだ。kind から kindness がつくられるように、なるほど。

えっと、つまり、ロジバンにはこっちの道もあったのだ:{lo prami}は「〈愛〉なる概念」を意味し、{lo si'o ke'a prami}が「〈愛する人〉なる概念」を意味するような。でも、実際のロジバンはその道に行かずに、今の形になった。

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閉文のsi'o抽象の話に戻る前に、ひとつの疑問について触れておく。それは、概念を引き出すために文を取る必要はあるのかということ、つまり、si'oはNUでなければならなかったのかということだ。これは、NUに abstractor という意味付けがなされていることが理由だと思う。述語を述語に変換する、しかもPSを全く別のものにするような変換を担う機能語群がないのだ。そのような機能語をどこに組み入れるかを考えれば、NUが妥当だということになる。結局何がいいたいかというと、概念の抽象に文が必要というのはロジバン側の問題だということだ。述語をそのまま名辞化してしまっていいシステム(慣習)がロジバンにあれば、概念抽象はLE(冠詞)に備わっていてもよかったように思う(同様の理由で、属性抽象もLEに備わっていてよかった)。

というわけで、概念抽象に必要なのは述語であって文ではないだろうという僕の意見に基づくと、閉文のsi'o抽象は妥当な意味の見いだせる表現だとは言い難い。だけれど、あえていえば、これは「0項述語の意味」だ。ふむむ。事実上、0項述語と命題文というのは同じものであるけれど、なんというかそれに対する態度は少し異なるじゃない。命題文の意味(命題)となるとやはり真偽にフォーカスが向くけれど、0項述語の意味となると1項述語とかと同じように、真偽とは離れたところの意味内容を感じたくなる。閉文のsi'o抽象をあえて正当化するなら、おおよそこういうことになると思う。

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個体の概念化はどのようにして行なうのだろう?つまり、gerku_1 や prami_2 のような対象の概念をロジバンでどうやって表わせばいいのだろう?

ただ、ここがロジバンの厄介で、かつゆえに素敵なところなのだけれど、こういう対象の概念すらも gerku, prami といった内容語が包含してしまっている、と考えるのがきっと上手くいく考えの道だ。これはplace structureの根本的な思想ともマッチする。というのも、そもそもplace strucuture(あるいはフレーム意味論)の思想というのはおおよそ「対象の何たるかは、関連する背景知識/フレーム/他の役割と独立して成立しない」というところにあるからだ。つまり、ロジバニストは 〈gerku_1〉や〈prami_2〉なる概念をもちあわせていない、いや、原理的に持ち合わせられないのだ。それこそがロジバン的思想の真髄であるともいえる。私たちはロジバン世界においては「名辞」の形で概念を持たない(と言い切るには、代項 mi, do, ti ...についてもう少し考える必要があるかもしれない。でもこれらは、概念的には定義上「からっぽ」であることに注意しておかないといけない。いや、もしかしたら空っぽじゃないかもしれない。わかんないや)。

ロジバンには(単体的な)対象概念がおおよそ存在しない。

というわけで、そもそも個体の概念化というものはロジバンと無縁だということになる。ほんとに・・・・・・?わかんない♡いずれにせよ、個体の概念化っぽいことをしたくなるとき、ロジバンでは然るべき属性を引き合いに出すことで解決しそうです。つまり、{lo ka gerku} だったり、{lo ka prami ce'u}だったりで大抵間に合うんじゃないかな…?あるいは {sidbo} を使う方法もあります*2

あるいは{lo si'o gerku zo'e} とか {lo si'o zo'e prami} でもいけるかもしれない。でもやっぱりこれらは述語的であるから、少し欲しいものとは違う気もする。

ロジバンの個体表現は論理学的には da か zo'e に還元される。ロジバンは個体に対してかなり興味がない。ロジバン原住民は、世界把握を個体レベルで行なうのではなく、事態レベルで行ってきたのだ。そこに確かに「何か単位的な存在」が参与していることは認識していたものの、それらに本質的ななにかを見出すことはついになかったのだ。言ってしまえば、彼らにとって、大事なのはその脚本であって、使われた俳優では全くないのだ。

だから、その個体がどんなものなのかを追記的に記述するときも、その個の属性によってではなく、その個の関わる事態によって記述がなされる。「あの事件に巻き込まれた子が、いまこの事件に巻き込まれている」という風に。

そう考えれば、zo'eから一体どんな概念を引き出せというのか!ということで、個体の概念化というものがロジバンでは無縁なことが改めてわかる。

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もちろん、総称的な対象は lo, lo'e で表せるし、lo'e/le'e はまさに対象概念のための冠詞、といってもいいかもしれない。ただし、概念化ではなく、brodaなる概念からの典型的な事例化である。いずれにせよ、ロジバンは名辞として概念を保有しないことにかわりはない。

*1:この辺りはガバガバでも別にいいのでガバガバです。

*2:これはこれで、sidbo_2に個体を入れて、それを介して概念化させるという点で少し回りくどい感じがする