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ゆくゆくは有へと

おかゆ/オカ∃/大鹿有生/彼ノ∅有生 の雑記

ロジバンのアスペクトについて考察するための前議論

2016年2月 大鹿 有生

 一般的に、ある事態の言明というのはいくつかに分類することができる:「ある状態がある」、「ある活動がある」、「ある変化がある」、それから、「結果を残すような様子がある」。従来の言語学の用語を用いて、前から順にこれらの事態のことを状態的、活動的、到達的、達成的と呼ぶことにする。

 状態的な事態と活動的な事態の違いは、その事態が動的か静的かということだけである。両者に共通して言えることは、その事態が何か「結果」を残すとはみなされていないことである。言い換えれば、それらの事態には何の「目的」も付随していない。「単にそうあるだけ」である。よって、当然ながら、これらは「終止」することはあっても「完了」することはない。
 状態的・活動的について、ロジバンは文法的差異が全くない(たとえば、英語なら少なくとも形容詞と動詞の区別が存在する)のでこれら二つの事態について区別する必要がないかもしれない。そこで、従来の言語学の用語を援用して、状態的事態と活動的事態の上位分類として非有界的事態をもうけることとする。すなわち、非有界的事態というのは「単にそうあるだけ」の事態のことであり、持続的ではあるが、そこに目的や到達点はなく、完了することがない。

 到達的な事象は、ふつう瞬間的なこととして捉えられる。「始まる」「終わる」「なる」のほか、「着く」「死ぬ」などがこれにあたる。これらは、ある状態から別の状態へ遷移するという事態だ。ほとんどの場合、この事態は瞬間的なことと捉えられているから、その事態の開始と終了は同時に起こる。たとえば、「赤くなる」が始まったとき、同時に「赤くなる」は終わる。ここで言った「始まる」「終わる」は、「赤い状態」についてではなく、「赤くなる」という事態についてであることに注意したい。実のところ、今ちょうど頭が混乱しているかもしれないくらいには、この手の瞬間的な事態に開始とか終了とか考えることがないし、実際、言語では不自然な表現として却下される。「赤くない状態」や「赤い状態」は持続的だが、その切り替わり点はたいてい一瞬だ。
 もし「だんだんと赤くなっていく」なら、「赤くなる」というのは瞬間的ではないのではないかと反論があるかもしれない。しかし、「だんだんと赤くなっていく」というのは状態の遷移ではなく、状態の推移(そうなるまでの過程)を表している。いずれにせよ、「だんだんと赤くなっていく」間、それは依然として「赤くない」のだ。たしかに、時間幅をもって別の状態へと推移していくような事態はあるが、それでも遷移はやはり一瞬である。だんだんと赤くなっていき、ある閾値に達した瞬間、そこでやっと「赤くなる」のだ。実は、すぐ後で述べる達成的な事態がまさしくこの手の事態である。

 達成的な事態は、「結果のある」事態だ。ここでは、「結果を残す」というのを、「ある状態を別の状態に遷移させる」(あるいは、「ある状態が別の状態に遷移する」)という意味で用いた。つまり、達成的な事態は、「注目している状態遷移がやがて起こる」ように何事かが進展していくような事態だ。よって、達成的事態は「完了」することができる。事態が完了するとは、結局、注目している状態遷移が起こるということである。というわけで、達成的な事態は二つの構造を有する:進展していく何事かと、注目している状態である。前者を進展過程、後者を注目状態と呼ぶことにしよう。
 その事態に対する話者の視点によって、達成的な事態には大きく分けて二つの種類がある。一つ目は、遷移前状態が遷移に向かう様子を進展過程としたもので、これは受動的な視点だ。たとえば、「赤くなっていく」という表現はこれに相当し、これは赤くない状態が次第に赤い状態へと向かっていく様子を進展過程としている。ふつうこの類の表現は、完了点の状態遷移を表す到達的事態の表現を元に作られる(今の例だと「赤くなる」を元にしている)。二つ目は、能動的な視点で、ある行為が遷移前の状態を遷移に向かわせていく様子を進展過程としたものだ。能動的な行為で、それになにか目的・到達点があるようなものはこれに相当する。「一つのりんごを食べる」や「ある人を殺す」など、多くの達成的事態がこっちに属する。
 もうひとつ、進展過程と注目状態の分離具合による達成的事態の区分が考えられる。進展過程がそれ自体で(別の事態種の)事態として成立できるような場合、二つの構造は分離可能であるといおう。たとえば、「三時間走る」という達成的事態の進展過程は、それ自体で「走る」という活動的事態として成立する。一方で、進展過程と注目状態が分離できないものもある。すなわち、その進展過程を事態化させようとすると、必然的に注目状態も付随してくるような場合がある。「赤くなっていく」はその一つだ。「赤くなっていく」という達成的事態の進展過程は必ず「赤い状態」に帰結する。つまり「赤くならずに赤くなっていく」ということはありえない(厳密には、ある達成的事態が分離可能かどうかは概念化の具合に左右される。たとえば、「そのりんごを食べる」という達成的事態があるときに、進展過程に「そのりんごを食べていくさま」をとれば分離不可能だし、「(何かを)食べていくさま」をとれば分離可能となる。「そのりんごを食べ切らずにそのりんごを食べる」ということは不可能な一方で、「そのりんごを食べ切らずに(他の何かを)食べる」ということは可能である。一般に、より汎用的な事態を進展過程に捉えると分離可能となる)。分離不可能な達成的事態はより本質的に達成的であるといえる。一方で、分離具合が大きくなればなるほど、その二つの相関性が弱いことになるので、その進展過程が注目状態を実現する保証が低くなっていく。

 分離可能な達成的事態では、その進展過程はそれ自体で(別種の)事態として成立できるのだった。進展過程は持続的であるから、そのような事態には二つの種類がありえる:活動的事態と達成的事態だ。
 進展過程が活動的事態様ならば、全体としての達成的事態は、ある目的を達成するためにそのような活動的事態を行なうという構造になる。逆に言えば、ある活動が何らかの目的/終点と結びつけられると、その活動と目的/終点が意味する状態遷移の複合的な事態は、達成的事態になる(ただし、目的が状態維持的なものである場合を除く。たとえば、「そのりんごが食べられないように見張る」という事態には完了点が見いだせない。このような事態はおそらく活動的事態のひとつになると思われるが、失敗しうるという点が典型的な活動的事態と異なる。本稿ではこれ以上考察しない)。
 より重要なのは進展過程が達成的事態様な場合である。このとき、達成的事態の中にもうひとつ達成的事態があるという入れ子構造になっている。達成的事態の入れ子構造は、他と比べても分離度がかなり高いため、その進展過程が注目状態を実現しない場合も十分にありえる。進展過程が達成的事態様であるとき、注目状態の遷移は進展過程の完了と一致することが期待されるが、進展過程の完了と注目状態の遷移は必然的なものではなく、ほとんどの場合で間接的に注目状態を遷移させようとする。「空腹を満たすためにチョコをひとかけ食べる」(あるいは「チョコをひとかけ食べて空腹を満たす」)という達成的事態が完了するとは、「チョコをひとかけ食べ切る」ことで「空腹が満たされる」ようになることである。この例では「空腹が満たされる」という注目状態の遷移のために、「チョコをひとかけ食べる」という達成的な進展過程を実行している。チョコをひとかけ食べることと、空腹が満たされることに必然的な因果はなく、あくまでそのような傾向があり、期待できるという程度でしかない。

 さて、達成的事態が完了に失敗するのはどんなときかを考えてみる。これは大して難しい問題ではない。進展過程が途中で終わってしまった場合、当然ながら完了に失敗する。これは以上で述べたどの場合でも当てはまる。それに加えて、進展過程が達成的であるときは、進展過程が途中で終わらなくても失敗しうる。進展過程の完了に注目状態の遷移が伴わなかった場合、その事態は全体として失敗したことになるからだ。これは進展過程と注目状態の分離度が大きいことに由来する現象である。

 以上では、達成的事態が大きな構造を有しており、その他の事態を内包しているように描いてきたが、その逆の構図もある。たとえば、「歩く」という活動的事態は「一歩前に踏み出す」という小さな達成的事態の繰り返しとして解釈することができる。もちろん、このことは全ての活動的事態がなんらかの単位的な事態の繰り返しからなることを意味しない。「ろうそくの炎が揺らめいている」という活動的事態からなんらかの単位的な事態を見出そうとするのは徒労に終わる。

 以上で論じてきた事態のタイプによって生起しうるアスペクトは異なってくる。ロジバンでは、構文上はすべてのアスペクト単語をつけることができるが、意味的に自然なものは限られてくる。ここで注意したいのは、論じた四つの分類は、事態についてのものであって、動詞・内容語についてのものではないということである。さきの例でみたように、これは「読む」という動詞による事態の表現に二つの読みがあったことからも明らかである。とはいえ、ある内容語によって表現される事態には一定の傾向が見られることがある。たとえば、「読む」な事態は達成的であったり活動的であったりするものの、状態的であったり到達的であったりすることはない。内容語には、表現するプロトタイプな事態のタイプというのがあるといってもよい(これは日本のエスペラントコミュニティで用いられている「点動詞」「線動詞」という用語とも関連がある)。このことに注意しつつ、それぞれの事態のタイプにおけるアスペクトを見ていくことにする。ただし、{co'i}についてはすべてにおいて生起可能である上に、それ単体で取り上げたいので、以下ではひとまず触れない。

 非有界的事態(状態的事態と活動的事態)の基本的なアスペクトは、{pu'o}, {co'a}, {ca'o}, {co'u}, {ba'o} の五つである。その事態が ①始まろうとし、②始まり、③継続し、④終わり、⑤既に終わっているという五つのサブ事態に分割できる。細かい話をすると、非有界的事態を表す {broda} に対して、{pu'o broda} とは {pu'o co'a broda} のことであり、{ba'o broda} とは {ba'o co'u broda} のことである。{co'a broda}, {co'u broda} は到達的な事態であることに注意したい。さらに、{de'a}, {di'a}も生起できる。この二つは中断と再開を表すが、結局のところ、これらは一時性というコンテキストを含んだ終了と開始なわけだから、{co'a}, {co'u} が生起できるのならば自然と生起できることがわかる。

 到達的事態に生起するアスペクトは {pu'o} と {ba'o} の二つだ。到達的事態は瞬間的に起こるため、その起こる瞬間の「前」か「後ろ」かを考えることができる。瞬間的であるがゆえに、持続的である非有界的事態と異なり、{co'a}, {ca'o}, {co'u} は生起しないことに注意したい。また、{co'a}, {co'u} が生起できないことから、{de'a}, {di'a} も生起できないのは明らかである。

 非有界的事態の{pu'o}, {ba'o} がそれぞれ {pu'o co'u broda} や {ba'o co'a broda} を意味しないのはなぜだろうか?この点について統一的な見解を得たいのであれば、{pu'o}, {ba'o}のアスペクトは本質的には到達的事態にユニークなものであると考える方法がある。その場合、非有界的事態に {pu'o}, {ba'o}が生起するのは、なんらかの到達的事態を経由しているからだということになる。実際、非有界的事態と達成的事態は {co'i} によって到達的事態化することができる。よって、{pu'o broda}, {ba'o broda} を、{pu'o co'i broda}, {ba'o co'i broda} という形を経由して定義することができる。ゆえに、{pu'o}, {ba'o} は常に {broda}の表す事態のそれぞれ左端、右端を参照するのだといえる。

 達成的事態も持続的であるから、非有界的事態と同じアスペクトが生起できる:{pu'o}, {co'a}, {ca'o}, {co'u}, {ba'o}, {de'a}, {di'a}。達成的事態の持続性はもっぱら進展過程に由来するので、これらのアスペクトは進展過程に対して適用される。これに加え、達成的事態に特有のアスペクトが一つあって、それが {mo'u} だ。これは事態が完了点に達したこと、すなわち、注目状態が遷移したことを意味する。なお、{mo'u} の表す完了点のことをBPFK sectionsやCLLでは “natural end point" と呼んでいる。

 以上、ロジバンのアスペクトについて考察するための前準備として重要であろうところを書いた。今後は {za'o} や {xa'o} を含めたロジバンのアスペクト観を統一的に把握していきたい。