ふつう、NU類(今回は du'u と ka だけに絞る)は1つの抽象を生成する。
lo du'u mi prami do / 私があなたを愛しているという命題
lo ka mi prami ce'u / 私に愛されているという性質
ところが、ma kau がNU節に入ると面白いことが起こる。
lo du'u mi prami ma kau / 私が何を愛しているのか(という命題)
「~なのかという命題」というフレーズは気持ちが悪い。なぜなら、「~なのか」というのに真偽はないように思えるからだ。しかし「何~なのか」を抽象ジェネレータとしてみることができる。つまり、議論領域の対象のうち、ma kau を埋めて出来上がる命題で真な命題のあつまりを「何~なのか」は生成するのだ。
もし、私が議論領域において ko'a と ko'e だけを愛しているとすれば、上の命題は、
lo du'u mi prami ko'a kei joi lo du'u mi prami ko'e
と等価になる。もう少し厳密に言えば、{joi lo du'u mi na prami lo drata be ko'a joi ko'e}「ko'aとko'e以外のものは愛していない」を付け加えるべきだ。
しかし、{mi na djuno lo du'u la .djan. cu prami ma kau} だとどうだろう。面白いことに、発話者である「私」はこのdu'u項が何を指示するのか分かっていない。が、これは
ti'e la .djan. cu speni lo melbi merko .i'unai / ジャンは美しいアメリカ人(私は知らない)と結婚しているそうだ。
などでもあることだ。それが何を指示するのかを、発話者は別に把握していなくてもよい。
実は、ma kau はNU節内での関数のようなものなのかもしれない。
lo du'u mi prami ma kau ≒ lo du'u mi prami f()
上の文脈でいえば、f() = ko'a .e ko'e くらいになりそう。
kaのほうも見ておこう。
lo ka ce'u prami ma kau / Xが何を愛しているのか(という性質)
これも makau が関数のようなものだとすると、
lo ka ce'u prami f(ce'u)
ここではこの関数はce'uの関数となっている。
ma kau を、その命題が真となるような値のあつまりを返す関数として定義するのは、上でいった命題の集まりを生成するというのと生成のレベルが異なる。この辺りについてはもう少し検討したい。ちなみに、スコーレム関数のことを少し思い出した。関係あるかどうかはわからないが。